1114
日頃の睡眠不足を解消するため、今日はほとんど眠っていた。低気圧のせいでひどい吐き気と頭痛に襲われたが、心は幾分楽であった。
睡眠が足りている時と足りていない時では考え方が180度変わってしまう。私は睡眠不足の時は非常に投げやりで大胆で、ある意味、臆病な部分が無くなって良い決断ができる気がする。
それにしても全く人生の楽しみというものがわからない。唯一楽しいと感じるのはゲームをしている時だけで、それ以外は何も楽しくない。友人と遊ぶのも異性とデートするのも美味しいものを食べるのも何も興味が出ない。いよいよ社会性が失われてきた。
医者には前々より、「会社や学校のような規定のある場所に通うことは不可能な性格だ」と言われていたが、しかし長く生きるには金を稼ぐ必要がある。
何か私にしかできない需要のあるスキルを持たなければならないと痛切に感じる。
明日は友人の通う大学の学祭に行く約束をしてしまったが、非常に面倒だ。その次の日の仕事も面倒だし、それから一週間働くのも面倒、そのあとの休日も全部面倒だ。クリスマスも面倒、正月も面倒、異動も、人と話すのも全部面倒だしどうでもいい。ウィッチャー3の進捗以外には何も興味が持てない。
現実世界になにか心躍るものを発見したいという思いはあるが、これだけ色々と探し回って見つからないのなら、もう今後私が何かを楽しむというのはほとんど不可能じゃないかと思う。
1113
3日ぶりに会社に行った。溜まった仕事を片付けていたが、時折パニックになって言葉が思い出せなくなったり、酷い腹痛や頭痛、何連勤もしたような疲労感で打ちひしがれた。
同期の子たちは心配してくれているが、とても人と談笑できるような心ではない。これは惑いである。
昨日に引き続いて仏陀の『真理のことば 感興のことば』を読んでいる。
惑いがあるのは浅はかで愚かだからである。
己を律し、正しい心を持つ人間は正しい道を歩むことができる。
仏陀の言葉は誠に有難く、本を読んでいる時だけは心的な苦痛からも遠ざかることができ、自然と己を反省し、敬服の念で冷静になることができる。
大学で学びたいことはたくさんあるが、仏教のことを学ぶのも良いように思う。
1112 鬱について
私は鬱病だ。
風邪やリウマチ、ヘルニアなどと違って、鬱病は気軽に人に告白できない風潮のある、それなのに見渡せば多くの人間を悩ます秘められた病だ。
診断を受けたのは高校生のときだったけれど、実際予兆のようなものは小学生のころからあった。今思えばヒポコンドリー性基調(死に対する異常な恐怖心、生への執着)だった。もともと集団生活に向かない協調性皆無だった私は、その不安定な環境のなか、心を「死」というものに集中させ、
結果的に
「死ぬのが怖いから自殺したい(はやく楽になりたい)」
という矛盾した感情に長く取り憑かれていた。死についてあまりに長く考えすぎて、ひどく疲労していた。心の中ではもう何百回も死んだつもりだった。死に結びつくもの=経済的困窮を何より恐れ、無職になることが死ぬことより恐ろしく、それと同時に、死にたいあまり治安の悪い地域に無防備に行ってみたり、知らない人についていくこともしょっちゅうあった。一思いに殺してほしいといつも思っていた。
それでも去年一年の間はなんとかマシで、仕事にも毎日通っていたが、今年の初夏あたりから不眠や謎のイライラに悩みはじめて、病院をいくつか回った。近所の心療内科で様々な薬をもらったが、どれも効き目がないように思え、たまに「効いている」と感じても実際はただの躁状態になっただけで、効果が切れればまたダウンしてしまうという悪循環に陥ってしまっていた。
そして7月、合わない仕事のことや個人的な悩みや忙しさでストレスが爆発し、自分の部屋のベランダから飛び降りた。幸い頭を打たず、骨折程度で済んだが、その後も鬱状態は続いた。
そんなことがあって今日、産業医から紹介を受けて超面倒くさがりながらも大学病院に出向いて教授に診てもらったが、結果的にいえば無意味だった。診察の結果は「今の主治医に、今まで通りの処方をしてもらい、今まで通り会社(合わない、嫌い、苦手な場所&協調性が必要な場所)に通うことがベスト」という、診察料を取られる意味がまったくわからないものだったのだ。
そしてようやく私は、薬と医者に頼ろうとしている自分に気付いた。
抑鬱状態のとき、一時的に抗うつ剤や抗不安剤に頼ることはまったく悪いことではないと思う。
しかし、私は、「飲んだら全部解決」を求めていた。
それに、初対面の医者に私の人生を解決してもらいたがっていた。自分の人生を一番知っているのは自分であるのに。
大切なのは、私の捻くれた「どうせ治らない」という諦めや開き直りからいかに脱出するかということだ。
そういうことに気付けただけで今日の診察は真には価値があったのかもしれない。
それに近頃、とある良いことがあって、私の個人的な悩みが解決される希望が少し見えてきた。仕事は失うかもしれないが、合わない仕事よりも大切なのは自分のメンタルだ。もしかしたら、生活が一変するかもしれない。それはまだ今のところ何も言えない。
病院から帰ってきて、はぁとふる売国奴さん(@keiichisennsei)の「うつヌケ」という漫画を購入して読んでいたら、大槻ケンヂの回で、大槻ケンヂが「仏教の思想を取り入れた療法で鬱を改善させた」と書いていたので、詰んであった本の山から岩波の「ブッダの真理のことば 感興のことば」を引っ張りだしてきてめくってみた。
鬱状態のとき、私はまったく文章が読めなくなるので、買い込んだ本の山を敬遠していたのだが、これはいわゆる一行名言集なので簡単に読め、しかも何故か涙が出てくる魔法の本だということがわかった。
大槻ケンヂがブッダから教わった「不安は常に人生につきまとうので、今できることだけやればいい」という言葉に、心がかなり軽くなった。
1111
これは一体誰の人生なのだろう?私はとにかく失敗しないように失敗しないようにと綱渡りするような気持ちで生きてきた。失敗というのは恥だ。他人に哀れまれることだ。受験も就職もそうだ。
そうしているうちに私の人生は私のものでなくなってしまった。私の人生は社会の中に置き去りにされてしまった……私は生きていない。私は死人同然だ。(しかし一体、誰がこの世で生きているのだろう?誰が自分の人生を持っているのだろうか?)
明日は転院先の病院へ行くが、大きな大学病院なので気が重い。なんでも受付の一時間前から行列が出来ているらしい。この世は病人だらけだ。病人は死んだ方がいいのだ………この考えは社会に人生を奪われた人間の発想だ。人間は本来勝手に生きていいものだ。結婚や仕事や家庭に縛られるのは狂気である。
今日は会社に行けなかった。すべてにおいて雁字搦めになっていると感じる。何をすればいいのか全く見当がつかない。
私は捻くれているだけだ。拗ねているだけだ。社会に対して。それがわかるとひどく恥ずかしい。
1109
pm16:02
気分が悪い。朝からずっと。いや、生まれてからずっと。
東京に行きたいが行くあても無いしやることもない。○○が仕事をやめて東京へ行ってしまった。○○はとても楽しそうだ。私はずっとくすぶっている。大みそかは父が有馬温泉に行くと言う。私は父を裏切りたい。父は私を憎み私も父を憎んでいる。
愛憎は紙一重でなく、まったく同一のものである、愛とは憎しみのことである……ただ、憎しみは愛ではないように思う。
私は忙しいし退屈だ……そしていつも寂しくて悲しい。毎日死にたくて、一週間毎に恋をして、一ヶ月毎に神様みたいに優しくなる。そして年に一度殺人をしたくなるのである。
本気で、死んでみようかと思っている。これは全然誇張でない。一度飛べたんだからもっと簡単に毒を飲むとか薬を飲むとかして、死んでしまいたいと思う。なぜかといえば人生がままならないからに決まっている。いや、ままならないと思っているのは私だけなのかもしれない。けれどままならないのは本当だ。私は間違った場所に生まれている