読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Don't foregive me.

晩夏のある日、サウラン・カーランド郊外ホボロ湖畔のフォードの車中で、二人の美しい少女の遺体が発見された。第一発見者のコニー・マッケンローは近くに住む農家の息子で、彼はまず最初に二人の遺体を写真に撮って地元の新聞社に売りつけた。
  写真はたちまち世界中の人々に共有され、有名になった。さくらんぼ色の唇と頬、若い美貌、あどけない死に顔……が人々の同情と欲情を引いたが、追って報道 されるようになった二人の悪事の露呈によって憐れみの声は途絶えた。彼女らの犯した罪の数々は被疑者死亡で不起訴となった。
 排気ガスで自殺した 二人の薄ピンク色の骸は故郷のサウラン・カーランドの公共墓地に埋葬された。葬儀ののちに、彼女らの眠る土の上で三日三晩街の若者たちによるヤク漬けの パーティーが催された。二人の訃報が街にもたらされたとき、どれだけの男が泣き咽び、どれだけの女が哄笑したことだろう。彼女らはまさしく、人々の上をす べりぬけていくめくるめく嵐そのものだった。
 二人のいない街は穏やかになったが、気の狂うような退屈に侵されはじめた。人々は退屈に抗い、時折 彼女らの骨を掘り起こしたりして、その度街の新聞は大きく報じた。しかし二人の死の数十年後、中東に端を発した核戦争によって国は亡び、今ではついに墓標 の行方もわからなくなってしまった。

 わたしたちがどうしてあんな真似をしたかって? それはたぶん、あの夏がすっごく暑くって、頭が眩暈(ぼんやり)して、数か月ものあいだ、わたしたちは一度も正気になれなかったからだ。デザルヴォも驚く ような無計画なわたしたちの計画は、夏の日差しのせいで、一切がめちゃくちゃだった。わたしたちの人生はまさに夏だった。
 街で一番の美女はわたしかシャルロッテのどちらか、馬鹿な男どもは盛んに言い合ったが、わたしにすればそれはとんでもなく退屈な論争だった。
  間違いなくシャルロッテが街で一番美しかった。そして、その心は常にうつろい、烈しく燃え上がる炎でもあれば、触れると痛みを感じるほど冷たく凍った氷で もあった。男どもはそろって彼女をでたらめだと言った。美しいがでたらめで危ない女だと。彼女を理解できる人間は誰もいなかった。世界でたった一人わたし を除いて。
 街の女たちはみなシャルロッテを害虫のように嫌がった。自分の男を取られるのが怖かったのだ。男どもはみんな彼女を見た。クラブに現れると誰しも彼女を酒のように目で飲み干した。わたしが白鳥だとすれば、彼女は蛇なのだ。人々は必ず蛇を見た。
  シャルロッテという名が偽名であることは分かっていたが、本当の名は何というのか、どこで生まれて、両親はどこで何をしているのか。ついにわからず仕舞い だった。わたしが彼女について知っていること、それは彼女がすさまじく美人で、放縦な享楽主義者だということだけだった。あの女こそは栄光の国で美の彼岸 の門番を仰せつかった悪魔だった。
 わたしは初夏の晩、マニャーラ通りの寂れた雑居ビルの前に車を停め、螺旋階段を降りてキャバレーという看板のかかった酒場に入った。キャバレーとは名ばかりの小さなバーだ。夏の生ぬるい風が肌を舐めるようで、わたしはじっとり汗をかいていた。
  扉を開けると鈴が鳴り、バニラムスクの匂いがべたべたと纏わりつく。ほの暗く狭い店内は、一面の毒々しいサーモンピンクの壁紙と赤いランプの光のせいで、 まるで心臓の内部のようだ。窓ひとつない穴蔵のようなバーで、いつも空気が沈殿している。カウンターに丸イスが四つと、その後ろにソファと小さなテーブル がある。
 キャバレーの主人は若い独り身のアリシアという美人だった。ノルウェーの出身で、きめ細やかな乳白色の肌で、鼻がつんと高かった。どこか冷たい雰囲気があったが、わたしは彼女が好きだった。
 先客がいた。若い女だった。この店に、わたし以外の客を見たのは初めてだったので、じろじろ見た。酒壜をラッパ飲みする女は、どこかふつうではない、狂ったところがあった。そしてその異様な飲み方が一層彼女の美しさを際立たせていた。
「あんたがヴィクトリアなの?」
「そうよ」
「待ってたわ。アリシアアペリティフをあげて。冷えたヴェルモットを。外はじっとり暑いから」
 彼女はわたしに酒をやると、
「街で一番お金持ちなのはあんたのお父さん?」
「そうかも……」
 彼女はなにか色いろ言ったが、わたしの耳には届かなかった。彼女の貌から目が離せなかったのだ。モルフォ蝶のような色の瞳に凝視されるたびにわたしは自分の体が溶けてしまい、透明になり、骨まで見透かされているような感覚に襲われた。
 わたしたちはたくさん飲んだ。わたしは気難しく、人見知りだったので、人と楽しく酒を飲むことは新鮮な体験だった。店を出たところでシャルロッテがわたしの手を握った。
「実のところさ」と彼女は酔った声で言った。「あたしの住んでる家の日よけが壊れちゃって、夏を越せないんだよ。ちょっとの間、あんたの家に置かせてちょうだいよ」
「それは無理よ。うちは貸してないの」
 わたしは内心恐怖していた。このような美しい女がそばにいたら、わたし自身を侵蝕され、壊されてしまいそうだった。
 すると彼女はすっかり気分を害してわたしの手を振り払うと、サンダルを甲高く鳴らして夜道に消えて行った。

 
  母の教えは、女はうつ病にならないということだけだった。しかし、その唯一のくだらない教えさえ母は自ら打ち破り首を吊った。わたしはこれ幸いと父を揺さ ぶって気ままな一人暮らしの権利を得ると、すぐさまサウロン・カーランド郊外の丘の上に売り出されていたフレンチ・ルネッサンス様式の一軒家を改装して住 むことになった。十五歳のことだった。
 わたしは高慢で世間知らずだったが、その欠点を埋め合わせるための輝く美貌があった。地元のサウラン・ カーランドでも、わたしの通っていた中学校のあるメル・ポーキーでも、そこから電車に乗って二十分のところに広がる西ハイドーガーの都市部でも、わたしほ ど美しい女を見たことはなかった。
 そのようなわたしの驕りを矯正するため、悪魔に遣わされたのがシャルロッテという女だった。わたしがあのキャバレーでの晩のあと、次にシャルロッテと出会ったのは三日後、中学校の中庭でのことだった。
 わたしはいつものように高級な香水の匂いをただよわせて男どもを引き連れていたが、いい加減そのような現象にも飽きていた。すると、ひとりの女生徒がわたしに声をかけてきて、中庭で私を待つ人がいると言った。わたしは訝しみながら中庭に向かった。
  英国風の中庭は中央に涸れた噴水があり、青い芝生と高低さまざまな木々と花、薔薇の垣根が蔦に覆われた校舎の壁に隠されるように囲われていた。一目見たと ころ人の姿はなかったが、耳をすますと女の甲高い声が聞こえた。わたしは急いで声のありかを探り、生い茂るアナベルの葉をかき分けた。すると二つの肌が見 えた。
 そこにはシャルロッテと少年がいた。シャルロッテはあいかわらず、いかにも奔放そうな笑顔を浮かべていた。その下で栗毛の白皙の少年が胎動する赤子のようにうずくまっていた。シャルロッテは気だるげに少年から肌を離した。
「ヴィクトリア、悲しまないで」
 わたしのボーイフレンドが今にも泣きそうな顔で言った。わたしは叫んだ。
「やめて、やめて。離れて。離れて」
  ボーイフレンドは顔を赤らめて、傍に放られた衣服を引っ掴むとすばやく逃げて行った。彼は病弱なバイオリン弾きの少年で、横顔がたいそう綺麗なのでわたし は入相の中いつも彼に惚れ惚れしていたが、しかし、残酷な日の光に示されたその背中にはすでに天使の清らかさはなく、ただ貧弱な仔鹿のように青白いだけ だった。わたしはひどく苦々しく思った。
 一方、悠然と裸のままわたしを見据えているシャルロッテのほうは、虎みたいに堂々としていて迫力と生々しさがあった。シャルロッテは少年のような声で言った。
「あんたを待ってたの」
  ついさっき飼い犬が死んだみたいな気うとい様子で、べちゃべちゃした話しぶりだった。弓のようにしなる身体と、ベルリンの森のような陰毛が破廉恥なきらめ きを放っていた。びっちりと生えそろった上下の睫毛が絡まりあい、薔薇のように赤い唇をむずむずと動かして、今にも眠りそうな様子だった。
「ここにいるってどうしてわかったの」
「わかるの。あたしはなんでもわかるの」
 彼女は丘の麓の林藪にキャンピングカーを住処にしていて、備え付けのサイトオーニングが壊れたのだった。そして彼女は丘の上の廃屋が新築の城のようになっていくのを見て、我がものにしたがったのである。
 わたしはボーイフレンドのことなんか頭から飛んでいた。シャルロッテはあまりに美しかった。わたしたちは一緒に住みはじめた。同じ高校へ進学したが、相変わらず学校には行かなかった。
  とにかく、彼女はめちゃくちゃな女だった。身一つで外へ飛び出しても、帰るときにはマセラティから降りてくる。お土産にワインと、一束いくらのモデルと、腕の悪いジョッキーを抱えて。彼女は愉快な人間だった。
  わたしの家をたちまちダンスフロアに変えて一晩中遊びほうけると、しまいには何十人もかたまりになって、プールに飛び込み、溺れたり絡まったり、叫んだり 泣いたり、気が違うほどの狂騒を呈する。遠くには、丘に垂れかかる燃えるようなモーヴの空。シャルロッテは、夢のような時間を作ることをいくらでもやって のけた。
 しかし、そのあとといったら、言葉にできない。家中のものを投げ合って遊んだせいで、ピーナッツバターやシロップ、ペンキで部屋中がべ たべたに汚れているなか、彼女はベッドに身を放りだし朦朧としながらジンを舐めている。なんとみじめな姿だろう。しかし、わたしの目には、汗と血、尿、そ してスキッピーで全身を汚して横たわるその姿が、むしろ神聖に映った。彼女は短いうめき声をあげると、這いつくばりながら庭へ飛び出した。そして、激しい 嘔吐を繰り返す。そして号泣するのだ。そういうとき、私は彼女を抱きあげ、またベッドまで運んでやる。ベッドの上でもやっぱり泣きやまない。ずっとぐずぐ ず泣いている。
 彼女が酒をやめたら、次はバスソルトをやるだろう。美しい魂の咆哮。彼女は気が違っていた。彼女の髪をかきあげてやると、真っ白い頬に垂れ下がる涙が見える。彼女の瞳には幾万の星が瞬いている。美しい、美しい銀河が流れていた。
「なぜあんなことするの?」
「ばかね、ばかね。生きているのが嫌になるからよ」
 快楽という生への抵抗。彼女を譴責するなどという無慈悲なことを、いったい誰ができるというのか。わたしはすっかり彼女に恋してしまった。

 真夏に差し掛かるころには、もう軽薄な遊びにも飽きていた。ロッティは日に日に陰険になっていった。
 ある日、バーに行くと言って出て行ったきり、翌日になってもロッティは帰ってこなかった。翌々日、わたしはようやくベッドから這い出してマティーラ駅の地下をさまよい歩いた。その日は薄曇りで肌寒く、嫌な予感がして、わたしは煙草を手放せなかった。
「白痴のロッティは一緒にいないのか」と、遊び人の男が話しかけてきた。
「いないのよ」
 男はわたしの腰に手を回した。わたしは何故かとても傷つけられた気持ちになり、家に引き返して酒を飲みまた眠った。
 そうこうしているうちに本格的に夏がやってきた。わたしはビキニを着てプールサイドでアイスバケツを食べたり、読書したりして過ごした。ロッティのいないわたしの家は寂寥として安寧だった。木綿のような日々のなか、わたしは蛇と出会った。
  若い少年はわたしの家のサンテラスに腰を下ろして、窓際のわたしと目があった。彼はユーリと名乗った。彼の腕に蛇が纏わりついている。斜陽が窓を染め、彼 の輪郭が金色に縁取られ輝いている。彼は蛇をかたわらの篭に押し入れると、煙草を取り出して吸いだした。わたしはそれをじっと見つめていた。すべてが彼に 収束している。彼の目に炎がゆらめいていた。
 彼を家の中に招き入れた。彼はヴァージン・ウールのカーペットをずかずか上がり込んで、前から予定されていたかのようにごく自然に彼は革張りの椅子に腰を下ろして、部屋を眺め回すと、テーブルの上のキャンディを手に取った。わたしはコーヒーを淹れた。
「あなた、サーカスの人?」
 蛇は庭の篭の中で優雅にとぐろを巻いている。
「ちがう。おれはマジシャンさ」
「あら、ほんと? だったら何か見せてちょうだいよ」
「無理だね」
「どうして」
「マジックはできない」
  どんよりとした気怠さが、部屋中に立ちこめていた。どうしようもなく憂鬱だった。彼とこれ以上会話をする気がせず、わたしは彼にキスをして、彼の腕のなか に潜りこんだ。退屈な肉体の上の熱は、わたしの頭蓋深くにまで沈殿し、身体の輪郭を曖昧にした。そのとき気がついた。彼の髪の色がすばらしく美しいこと を。ニンフかもしれない、と思った。彼は銀髪なのだった。
 三日後の晩、シャルロッテが帰ってきた。スターダスティムのレストランで、彼女は羊肉のワイン漬けをご機嫌に切り分けながら、歌うような声で少年の話をした。
「素敵な男の子なの」
 彼女は目を閉じて微笑んだ。わたしと会わなかった二週間のあいだ、彼女はずっとナパルの色街でホテルを転々としていた。まるで職業娼婦のようにアンティカ・フォーミュラ片手に、地べたに座って滑稽な男女の茶番劇を鑑賞しつづけたという。
「煙 草くわえてホテル前の階段に座りこんで男どもを眺めてたの。そしたら、煙草屋に蛇を入れた籠を持った、サーカスの小間使いかなんかの若い男の子がやってき てヴォルティジュールを買っていった。その横顔をぼうっと眺めていたら、なんだか、ぴんときたのよ。この人だわ、って。だってとっても鼻が綺麗だったし、 それにその日は街じゅうプラチナ色の艶かしい靄におおわれていて、彼が妖精のように見えたのよ。水銀みたいな髪がきらきら光ってたわ」
 わたしはひどく寒気がした。これ以上彼女の言葉を聞いていたら、思わず水をふっかけてしまうだろうと思った。ユーリの話も、彼女の甘ったるい微笑もうんざりだった。
 わたしは、軽く席を外すふりをして車に乗りこみ、一人で家に戻った。彼女の話を忘れきるために、ずっと手をださなかった忌まわしい粉を吸い込み、でたらめに音楽をかけ、映画を流した。
  かわいそうなロッティ! わたしがこうしてベッドにすわりこんでいる間にも、彼女はあのレストランでわたしを待ち続けているのだろう。いや、そんなことはない。彼女は一瞬たりとも じっとしていられない性分なのだ。五分もたてば、彼女はすぐに目ざとく男を見つけ、酒と肉を食わせてもらっているにちがいない。今までなら。そう、今まで なら。バニラのように溶ける笑顔、アーモンド型の瞳、真赤な唇……
 一時間後、ロッティが帰ってきた。驚くべきことに、電車とバスを乗り継ぎ、丘の麓からは自分の足で歩いてやってきたのだ。シャルロッテは鈴を鳴らし、わたしはドアを半分開けた。ロッティは汗をししどに流し、恥ずかしそうに笑った。
「お風呂に入らせてよ。くたびれちゃった。なんせバス停から遠いもんだから……」
 わたしは怒鳴った。
「もう来ないで! わたしに顔を見せないでよ、二度と、二度と」
 わたしはドアをばたんと閉めた。彼女の声が二、三聞こえたが、耳を塞いで振り切るように応接間へ駆け出した。
  彼女はもう二度とサンローランのプレタボルテをつくろったり、香水を庭に投げつけて悲しく遊んだりしないだろう。高級車を乗り回すことさえしない。ユーリ がそれを望まないからだ。わたしは彼女がうやうやしく皿を拭いたり、あくせく箒でちりをはいたり、嬉しそうにクッキーを焼いている姿を思うと、いたたまれ ない気分になった。
 ロッティは死んだ! あの蠱惑的な悪魔は愛によって殺されてしまった。そして残ったのは、一人の女だった。
 翌朝、 わたしは白い日光が差し込むベッドの上で目を覚まし、あのいやらしい麝香の匂いがしないことに安心した。どこまでも無臭の部屋に、わたしはうち震えた。ク リーム色のにじんだこの部屋のあたたかな幸福から逃げ出してしまいたかった。わたしはもはやそれを単純に受け入れることができなくなっていた。
  彼女と同じように、いつもなにかしら傷ついていないと不安なのだ。見まごうことなき幸福の汀に佇んでいると、恐怖におののき、あっと叫んで荊の森へ逃げ戻 りたくなってしまう。そして荊が自分の足裏を、指先に傷をつくり、打ち付けた腕に真新しい痣をつくり、血が滲みだす時だけ、心が安らぐのだ。なぜか? わたしたちは幸福でいるあいだ、何をすればいいか戸惑い、手持ち無沙汰になってしまうから。つまるところ、退屈だけが致命傷なのだ。
 わたしは車に乗り込んだ。メン・トロル講堂まで、急ぎで。
 講堂の裏で彼が待っていた。昼の日差しの中で見ると彼の顔はいっそう青白く鈍く輝いていた。
「彼女と会わないで」
 わたしは判然と言った。彼は、眠たげな重いまぶたを開けてわたしを見た。軽蔑の表情だった。
「なぜ?」
「彼女はあなたに首ったけなのよ」
「それをどうして止める?」
「わからないかしら。すべてを言葉にしなくちゃいけないの?……」
 わたしの悪い癖だ。何もかもを、ロッティに、それからユーリに、決めてもらいたがっている。それがどういう方向に転んでも、わたしには勝機があるのだ。
 ユーリは目をぱちぱちさせた。そしてわたしを抱きしめた。彼からは雪の匂いがした。きっとアリシアと同じように、北から来たのだろう。極寒の地から身一つでこの街にやってきて、女に恋をした。しかし女はミリティニで生まれた。
 わたしは恋なんてひとつも知らなかった。動物的で非連続な一瞬一瞬に、名前を付ける気はなかった。それは空気のようなものだったから。でも、この愛に彼女は名前をつけたがった。
 そして、彼女は帰ってきた。彼女は一晩中泣いた。ひどく羨ましかったのだ……わたしは誰かの為に泣いたことがなかったから。
 ユーリが去って行った悲しみをロッティは夜遊びでいやした。あの生涯忘れることのできない発熱するような夏の日も、わたしたちはナイトクラブにいた。
 シャルロッテは、ディオールの唇からチラチラと舌をのぞかせると、ダーム・ブランシュをついばむ。彼女の上目遣いの白目と瞳の配分……冷たいバニラアイスと、熱いときたてのチョコレートソースの配分……それらは等しく完璧だった。
「あの人……」
 シャルロッテは群衆の中の一人の青年を指差した。長いブロンド・ヘアーの青年だった。
「すてきじゃない? ねえ、あんた、知ってる?」
 そう訊ねられ、私は青年を注視した。青年は上等なレザージャケットを着て、気だるそうに肩を揺らしている。彼女は大きな瞳に彼を映している。ついに青年はダンスを止め、こちらへ歩み寄ってきた。ダンスホールには、ペギー・リーの歌声が響いている。
「すてきね、あなたって。すてきだわ。タジオみたいね」
 彼女は酔っている。青年は目をきょろきょろさせて、私と彼女を交互に見やり、困った顔で私に微笑みかけた。シャルロッテが、ふだん使わないような甘ったるい女言葉を話して甘えるものだから、私は思わず噴きだして笑った。彼女は青年の白い首筋にキスしている。
 青年は、私と彼女の間にどっかり座ると、にわかに私の頭を抱えて、私の唇を食った。味のしない肉を食べているようで物足りなかったし、頭痛がした。
  私たちは三人で手を取り合って、寄り添い合いながらVIPルームへ入った。部屋の中央に置かれた紗幕を垂れめぐらせたキングサイズのベッドに、三人そろっ て倒れこむ。そのときの反動で、私は手に持っていたワイングラスを落っことしてしまった。私たちの熱をもってワインが香り立つ。
 青年はシャル ロッテとわたしのどちらを愛そうか、悩み苦しんでいた。どちらかを選んで角が立つことに怯え、できるならば平穏に快楽に陥りたいと真面目に考えているよう だった。わたしは彼をシャルロッテに譲った。わたしがそっと彼の腕から離れると、彼は一種の使命感を帯びた瞳で、わたしの顔を見てまた微笑んだ。わたしは 身体が怠かった。
 シャルロッテはルブタンをはげしく壁に投げつけた。わたしはボーイを呼びつけた。白い貴婦人をふたつ。すぐにそれは運ばれてき た。わたしは、シャルロッテの赤らんだうなじを見ながらアイスを食べた。彼女はそれを見て、屈託なく笑った。しかし、それもすぐに悲しみの表情に変わる。 彼女のまぶたの青黒い血管。倦怠。どうして愛し合っているのに、こんなにもおっくうなのだろう。
「ヴィクトリア。ヴィクトリア……」
 動物の呻き。戦慄き。嘔吐。チェリーシロップに浸した剃刀。彼の首から火山のような鮮血が飛び散った。……わたしはそのとき確かに輝く流星を見た。
  起きぬけにパルフェ・タムールをひとくち嚥下すると、憂鬱な彼女はベッドから這い出してきた。髪が痛々しくからんでいる。わたしは真横に横たわる死体のこ とを考えると気が気でなく、一睡もできなかった。シャルロッテは、ドーナツパンに蜂蜜を垂らして私のワインを奪い、口の中に流しこんだ。そのとき青年の頭 に手があたり、彼女は驚いて死体からのけぞった。
「ああ、どうしよう?」
「なぜ殺したの?」
「なぜって、わからないわ。それがわかったら人殺しなんてしないわ」
 午後三時になった。わたしは抽斗の上の瓶からシロップ漬けの林檎をつまみ上げて食べ、マリリンを吸った。ロッティはけろりとした顔で、ルブタンを履いて立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「ここではないどこか」
  薄い化粧着に、キツネのシューバを羽織り、キャノチェをかぶり、手には蝙蝠傘というでたらめな服装だ。バッグには手当たり次第のお金と赤い口紅。あわただ しく棚からヒプノティックの壜を取り上げると、そのままドアを開けて出ていった。ついてこないで、という意思表示のために、とても荒々しく。
 ダ ンスホールを出た階段をおりた先には、タクシーが止まっていて、ロッティがむくれて待っていた。彼女は私なしではどこにもいけない。身体はのびやかで自由 だけれど、精神はどこまでも窮屈に、わたしの精神と絡まっている。でも、それはさだめであって、お互いの意思ではない。わたしたちは、どこまでいっても一 人で、孤独だ。抱きしめあっても同じこと。孤独な魂はどこまでも交わり合うことを知らない。二つの孤独の魂が、離れてそこにあるだけなのだ。
 わたしはタクシーから彼女を降ろした。
「タクシーじゃ足がつくわよ。彼をどこかに埋めなくちゃ」
「どこかって?」
「わからない。でも、どこか。ここではないどこか」
  ロッティを部屋に戻すと、わたしは変装して大きなレジャーバッグと肉包丁を買って部屋に帰り、二人で彼を切り刻もうとした。しかしわたしたちの虚弱な腕で は、彼の右足を切断するのが限界だった。わたしの呼吸は浅くなり、意識の外にあった心臓が、突如在り処を示し、荒々しく打ちはじめた。絶え間ない震えの波 は、皮膚の上でぶつかり合い移動し、全身を通過した。一時間かけて、彼の頭部だけを切りとって、レジャーバッグに詰めてクラブの裏にとめていた車に乗り込 んだ。ロッティは煙草を吸いながら笑っていた。ハールマンみたい、と興奮して繰り返した。
「化粧が汚れたわ。帰ろうよ」
「帰れないわ」わたしはいらいらしていた。「もう帰れないわ。丘の上には」
「じゃあ、どこ行こう。メンチーズとピンクベリーとシャンティ・クリームをめいっぱい食べたい気分なんだけど」
 彼女は学校の先生に怒られたくらいの様子だったので、わたしは少し落ち着いた。
  何かしら用事があるというのは、うれしいことだ。それがたとえ生首を埋めるために荒野へ向かうというものでも。べたべたと汗ばむ夜ふけ、わたしたちは西ハ イドーガー市を猛スピードで駆け抜けた。行きかう人々がみなわたしたちを監視しているような気がしてわたしは眼球が飛び出しそうなほど怖かった。
タブラ・ラーサって知ってる?」
 ロッティは後列のシートに寝そべって眠りかけていた。
「知らない」
 わたしは答えた。
「聖カタリナの棕櫚は?」
「ふたりで見に行ったじゃないの。ドレスデンの祭壇画」
  ロッティが気まぐれにわたしのうなじにケリー・カレーシュを振る。いつも、ロッティの行動なんかに一つも理由や根拠なんてなかった。ロッティがそばにいる ときは、気分が浮き立ち、二人でどこへでも行けるような気持ちになる。わたしは、誰にも掣肘されない場所、ドメルガ荒野の方角へ車を走らせた。
「わたしたちってマリリンとジェーンみたいね」
「馬鹿ヴィッキー! あたしはもっと綺麗よ」
 ロッティは勢いよくコデインを吸った。

  西ハイドーガー市を発って半日後、車の運転をロッティに代わってもらってわたしは後列のシートに横になった。生首は座席の下のバッグの中でごとごと揺れて いる。ラジオでは首なし死体のニュースが騒がしかったが、犯人の特定はできていないと聞いて心が軽くなった。あのクラブのオーナーはわたしたちをとびきり 溺愛していたのだ。
 日が暮れるころ、カンテ郊外にモーテルを見つけた。コーラで全身の血を流してから中に入り、シャワーを浴びて、近所のアウト レットで服を買った。それからダイナーで夕食をとった。わたしはクラブハウスサンドをほおばりながらテレビを見ていた。行方不明の男の写真が何度も繰り返 し流されたが、その顔はすでに腐りかけているだろう。なぜって、今夜は熱帯夜だからだ。
 ロッティは素敵な男と足を絡ませてジンジャーエールを飲んでいた。その美しい目をしたバシェルという男はトルモレ出身の工員で、錆くさい日常に飽き飽きしていた。バシェルはすっかりロッティに惚れて今にも襲いかかりそうだった。
「明日にはもうカンテを出ていくの。でもあんたを忘れないわ」
 ロッティは彼の髪に何度も口づけ別れを惜しんだが、結局、わたしは朝目覚めたときにも彼を見かける羽目になった。彼の肉体は美しかった。ロッティが眠っているのをしり目に彼は私の手を握った。
「このクソ野郎!」
 ロッティが突然起きあがって叫び、剃刀に手を伸ばして、わたしの手を握る彼の腕を切りつけた。バシェルは叫び、ロッティの首を絞めた。わたしは急いでバッグから肉包丁を持ち出して、彼の背中に振り下ろした。彼が倒れ込み、ロッティと歯と歯をぶつけた音がした。
 そしてお決まりの往復運動……首切りのあと、寝ぼけたロッティを抱えてわたしは車に乗り込んだ。服を着替えるとホテルの窓から逃げ出した。一つ目の生首からは異臭がした。
「今日のうちには着く?」
「どこかいい場所があればいいけど」
「アホね。どこでもいいの。ヒールで穴を掘るのよ。そしたらどこだっていい場所だわ」
 ドメルガ荒野に着いたのはその日の夕刻だった。夏の宵待ちの空が澄んでいた。ロッティは二日酔いと生首の臭いですっかり不機嫌になっていた。それに前歯がまだ痛んでいたのだろう。
「首はそのへんに置いて、どこかで眠ろうよ」
「だめよ。ちょっとくらい掘って埋めるの」
「今度から首を切るのはやめよう」
「首が無ければ、少しくらい時間稼ぎになるわ、仕方ないのよ」
 ロッティは倦怠のため息をつくと、渋々座りこんでヒールを脱ぎ、穴を掘った。その作業だけで一、二時間かかった。警察が通らなかったのが幸いだった。
 首を埋めて、最後は素足で砂をかけた。あまりにもお粗末な墓標だった。しかしわたしたちは疲れきっていた。その晩は、夜が明けるまで車を走らせ、オニエという小さな町のモーテルに泊まった。
 朝目をさましたとき、ロッティはテレビを点けていた。今日の夜更け過ぎに、二つの生首が発見されたニュースが流れていた。
「逃げなくちゃ」
 ロッティは言った。
「どこへ?」
 わたしは声を震わせた。ロッティはどこかわくわくしているようだった。
「どこへでも。ここではないどこへでも」
 もうどこにも帰る場所はなかった。あるのは、シャルロッテと二人で行く場所だけだ。カーランドでわたしたちを覆いつくしていた退屈は霧のようになくなっていった。わたしたちにはやることがある。警察から逃げなければ。
 オニエを出るとしばらく車道を走って、ようやく名前を知っている都会コテーカに出た。ロッティはここで降りようと言った。
「しばらくここにいても大丈夫よ。だって、犯人なんて誰にもわからないじゃない。もし、あのクラブのオーナーが吐いたとしても、これだけたくさん人がいる場所ならあたしたちを探し出せるわけないわ」
 わたしたちは、マロニエの植わったプラード沿いにあるカフェに入った。カフェの奥の席で、ロッティは煙草をふかしながら一人のギャルソンを目で追っていた。わたしはサンドウィッチをほおばりながら彼に狙いを定めている客の女の数を数えていた。一人、二人、三人。
 黒髪のギャルソンはわたしを見て羞じらうように笑った。わたしは手をあげて彼を呼び寄せ、「ヴェルモットをいただけませんかしら」
  と言って、彼の清潔なシャツの袖に触れた。ロッティはテーブルの上のコーラ瓶をつまみあげて飲んだ。テーブルには水滴の輪が暈のようにできている。カフェ の向かいのマヌカンが派手な桃色のスカートを履かされている。わたしの唇は渇いてひび割れている。ヴェルモットよりコーヒーが欲しかった。ガラ・ピーター の板チョコが食べたかった。
「あたしが狙ってたのよ、彼」
 ロッティは口をとがらせた。
 暑さにあてられてすっかり馬鹿になった わたしたちはこんな風にして日がな一日カフェやバーで男遊びに明け暮れていた。殺人のことはまるで健忘症のように忘れ去っていた。ニュースでわたしたちの 犯した罪が報道されても、まるで他人事だった。恐るべき平和が鎧戸の隙間から滲み出しはじめていた。……退屈……
 カフェに一人客が入ってきた。細いジーンズに黒のライダースを羽織ったロックスター風の客は、低い声でコーヒーを頼み、カウンターにもたれながら店内を見渡した。眼の下に黒いアイシャドウを引いたマスキュリンなエモ・ダイクだ。ロッティも彼女を注視していた。
「素敵」
「でも女よ。それにエモ」
「あんたは嫌なの? 意気地なし」
 ロッティは彼女のほうへ行くと、彼女の隣で店員にトイレの場所を尋ねた。ロッティの手が彼女の腕に当たった。
「ごめんなさい」
  二人は見つめ合った。エモ・ダイクは苦笑したが、その小さなえくぼや咽喉を押し付けて鳴らすような笑い方がロッティの心を揺さぶるのがわたしにもわかっ た。彼女は本当に色っぽかった。ロッティはトイレに向かって、そのあと慌てたようにすぐわたしのもとへ戻ってきて、興奮した様子でビールを飲んだ。
  そしてギャルソンを呼び寄せると、エモ・ダイクを小さく指差してアップルパイとモカを注文した。エモ・ダイクは長い脚を組みながらフランスの新聞を広げて いる。ギャルソンがすぐに彼女にパイの皿を持って行った。彼女がわたしたちのほうをちらと見て笑った。ロッティはスターに手を振られたワナビーみたいに舞 い上がった。エモ・ダイクは皿を持ってこちらのテーブルに移ってきた。
「名前は?」
「あたしはロッティで、こっちはヴィッキー。あなたは?」
「モルガン」
「パイはお好みだった?」
「もちろん」
 モルガンはパリ生まれでアートを学びにきた留学生だった。彼女はパンキッシュなライダースを脱ぐと、のびのびと両腕を伸ばしてわたしたちを抱き囲んだ。
「君たちの来た場所をあててあげよう。ハイドーガーだろ」
「どうして?」
「ハイドーガーは世界一美人が集まる街じゃないか」
「ハイドーガーはよく行ったわ。うちがカーランドにあって……」
「いいね。君たちは生粋の都会娘(ヒップスター)なんだ」
 ロッティは上機嫌に「そう、そう」と頷いた。それからモルガンの薄い胸に擦りつくと、「あんたからパリの匂いがするわ」
 ロッティは口を動かしてわたしに「帰って」と相図した。
  仕方なくわたしはカフェを出て通りで適当な男を捕まえてホテルで寝た。男はポマードくさい学生で、植物学の話を飽きるほど話していたが、わたしはそんなこ とどうでもよかった。モルガンの陰のある瞳が忘れられなかった。あの二人はすぐに破滅するだろう。ポリガミー同士がうまくいくことは、ほとんどありえな い。
 次の日ホテルの階段を下りたところでモルガンが待っていた。昨日と同じ服を着て煙草の匂いをまとっていた。彼女は少し困ったように笑ったあと手を上げて、「おはよう」と言った。
「いい朝だね」
「寝てないの?」
「うん。でも、平気」
 彼女はふらついた足取りでわたしを追ってきて、肩に腕を回してきた。香水と煙草と酒、それからパリの匂い。わたしは惑わされたくなかった。
 モルガンは突然わたしの手を引いてオープンカーに乗り込み、走り出した。朝のコテーカは最高だ。空気が澄んでいて、誰もかれも笑顔で、幸せそうだ。
「昨日はごめん。ああいうことはよくないと思うんだ。だって……僕たち、知り合ったばかりだし」
「いいのよ。ロッティに出会った人はみんなああなっちゃうの。雷に打たれたみたいに、あの美しさに夢中になってしまう」
「美しさなら君も同じさ。違うのは積極性。君ってなんだかちょっと、近寄りがたいから……美しさは同じくらい。これは本当だよ」
 わたしは笑ってしまった。モルガンも笑った。それからわたしたちは街角のベーカリーでパンとミルクを買って、近所の公園で食べた。
 そのあと、彼女のお気に入りのカフェテラスでお茶をした。わたしは好きな本の話をした。彼女は静かに微笑みながらそれを聞いてくれた。彼女はそよ風みたいな人だった。
「わたしの話、退屈じゃないかしら?」
 わたしは巴旦杏のアイスが溶けていくのを見つめていた。はっきり人の目を見られなかったのは、シャルロッテ以外では初めてだった。
「どうして? 今時ディケンズの話をする娘なんて滅多にいないし、すごくいいと思うけど」
「わたしみたいな人間はこんな話するべきじゃないわ。それより、下着の話とか、ドラッグの話とか……そういう馬鹿みたいなこと話したほうがいい気がするの」
「そうかな」モルガンはわたしの指を弄びながら、
「ロッティはそうだろうけど。でも、僕は好きじゃない。あの子はすっごく可愛いけど、なんというか……」
 彼女はすごく考え込んでいた。この場にいないロッティのことさえ傷つけないように、優しい精神を尖らせていた。遊星のような眼球が泳ぐ。太陽に透かしたラスピラズリの色。
「彼女は原液なんだ」
「わたしなら気軽に飲めるの」
「そうじゃないよ」
 彼女は困り顔で笑った。その笑顔が愛おしかったので、もっと困らせたくなった。私の中のバーナーが燃え上がる。今すぐ彼女の首筋に吸い付いてしまいたい衝動を、アイスを食べて誤魔化した。巴旦杏の味はしなかった。
「あたしからすれば、彼女は闘魚よ。人を殺すわ」
 汗が睫に垂れ落ちてきた。暑さと緊張でひどい頭痛がする。
「君のほうが比喩が上手だ」
 わたしの視界の隅で、人々が燃え盛る炎の絨毯の上を歩いている。ゆっくりゆっくりと、まるで自ら死を望むかのような遅さで。そしてわたしたちもまた、ゆっくり見つめ合っていた。いつしか日が暮れだしていた。
「わたし、帰る。とても頭が痛いの」
「じゃ、送るよ」
「頼むわ」
 途中で薬局でアスピリンを一壜買った。店を出るとき、サングラスをかけたモルガンがわたしを待っているのが誇らしかった。街じゅうでわたしたちが一番素敵だと胸を張って言えた。
 ホテル前で、わたしは彼女の手を握った。
「踊りましょう」
「踊るって?」
「わたしの部屋に来て」
  わたしは無意識にそう口にしていた。情緒的美的効果。わたしたちは部屋に上がり、まず裸足になると、服を脱いで、下着姿で、テレビの音楽専門チャンネルに 回して、でたらめに踊った。足をもつれさせ、ベッドから転げ落ち、フロントから何度もビールを運ばせ、宙回転するように踊った。彼女の身体は男と女を併せ 持っていた。人体の美が躍動し、電球が怒ったようにわたしたちを照らし出していた。蛾、花火、嘆き、ナノメーター、脳震盪、お祭り騒ぎ。
 二人でベッドに倒れ込んだのは夜の十時だった。
アスピリンを取って」
 彼女はわたしのバッグに手を伸ばした。眠くはなかったが甘ったるい疲れに襲われ、わたしは目を閉じた。彼女が悲鳴を上げた。そのあとすぐに廊下からバタバタと急いた足音がしたと思うと、次に目を開けたときには、既にロッティがモルガンの首を絞めていた。
 ロッティは物凄い形相でわたしを見ると、わたしにも絞めるよう促した。わたしは呼吸を荒くした。突然海に投げ捨てられたみたいに息ができなくなった。
 わたしも彼女の首に手を回した。モルガンの眼球がわたしを睨んでいた。モルガンは何か言おうとしていたが、声は出なかった。彼女の締め付けられた咽喉は空気を通さず、ひび割れるような戦慄が臀部から脳天まで電流のように流れた。
 そして彼女は彼女の皮膚から去って行った。
「包丁を見られたんだもの。仕方ないよ」
  ロッティはぐったり疲れきって言った。そしてわたしたちは最後の力を振り絞って、モルガンの首を切り取った。わたしのつまらないディケンズの話を頷いてく れる首は、ガラスのように砕かれてしまった。不思議な気持ちだった。人がみな心の中に持っている黒い穴の中に、彼女もまたすっぽりと落ちてしまった。
 一気に全身から汗が噴き出した。幾千もの蟻が肌を這いつくばっているような感触だった。そのとき初めて、部屋の冷房が切れていたことに気づいた。
「愛してた?」
「愛してたわ」
 わたしはどうすることもできなかった。
 闘魚さえ沈黙し、モルガンの首をバッグに詰め込むと、わたしの手を引いてホテルの窓から逃げようとした。
「待って」
「逃げなきゃ。服の着替えがないんだ」
「モルガンの乳が欲しいのよ」
 ロッティは仕方なくわたしの手を離した。
 わたしは裸電球に照らされたモルガンの乳首を口に含むと、それを切り取ってポケットに突っ込んだ。

 その晩は珍しくロッティが文句も言わず運転してくれた。わたしは後列のシートで、何度も思いだしたようにモルガンの乳首を口に含んだり吐き出したりした。わたしの足下には愛しいモルガンの首があったが、開いて見る気にはなれなかった。
「それ、どうする?」
「パリに埋めに行ってあげたいわ」
「無理だよ。それに、新しい服を買ったら、もうお金がなくなる。ガソリンが買えなくなったらどうしよう?」
 不思議なことだが、売春しようという気持ちは二人ともなかった。これは、悪事に悪事を塗り重ねた悪魔のようなわたしたちの、最後の尊厳を守りきろうという、おかしな道徳心だったのかもしれない。それは自分自身に対する最後の縋りだった。
 とにかく仕事がほしかった。ロッティは楽観的で、いざとなれば男をつかまえて財布を拝借するつもりだった。しかし、警察の厄介になりたくなかった。
  ロッティはルボーラ州のアテレオ山にあてがあると言った。アテレオ山の奥ではマリファナ栽培が盛んで、今の時期には収穫のためにいつも人手不足なのだとい う。警察よけのために獣道で、人気が少ないので、そこでは女手でも雇ってくれるだろうとロッティは言った。たぶん彼女はそれよりも自分のまかない目当てだ ろう。彼女はもうずっとヤクを切らしていた。
 その日は運良く雨だったので、服を雨で洗うと車道沿いのモーテルで眠った。 
 翌朝、わたしはアクセルを踏んで荒野ネルミバを抜け、アテレオ山の頂上を目指した。ロッティが喉がかわいたと騒ぎだしたので、荒野のさなかにぽつんと現れたソーダファウンテンに入った。
  近所の高校生たちがたむろしてだべっている。わたしたちが入るなり男の子たちは口笛を鳴らした。わたしは気が張っていていらだっていた。ロッティはサング ラスをかけたまま店員にコーラの瓶を1カートン頼んだ。ガキどもはその様子をじっと見守っていた。ロッティはついに一度も彼らに目をやることなく、ミュー ルをかつかつ鳴らしてファウンテンを出た。
 荒野の暑さは完璧だった。わずかな風でさえ火事を誘発しかねない危うさがあった。熱風が怪物の呼吸のように吹き荒れた。
 ロッティの足下に置いたコーラの箱からドライアイスが煙っている。ロッティは楽しそうににこにこ笑って、でたらめな調子で歌った。
 モルガンの首は、アテレオ山の麓に埋めた。湿った土が柔らかかかったので掘りやすくて助かった。最後にキスしたかったが、もう腐敗が進んでいてとてもできなかった。
 ロッティの知り合いの男は、ここ一帯のマリファナ農園の地主で、わたしたちを快く迎えてくれた。深く詮索されないことが最も彼のよいところだった。
 わたしたちの他にもう一人、イタリア人の男が雇われていた。名はルマーノといった。無愛想な男で、わたしや、ロッティを見ても挨拶するだけで、口説きさえしてこなかった。こんなことは初めてだったので、わたしたちは思わず顔を見合わせた。
 アテレオ山での生活は結構よかった。医療用という名目なので警察もとやかく言わないし、近くの農園の作業員たちも、お互いを深く知りたがらなかった。
「今年中ここにいてもいいかもしれないわね」
 ロッティはずっとご機嫌だった。なんせいつでもマリファナが手に入る状況は、彼女にとっては天国に等しかっただろうから。ただ、男が少ないのは不満げだった。彼女はルマーノにたまにちょっかいを出したが、いつも愛想無く躱された。
 そうこうして二週間くらい経った。
「ルマーノをどっちが誘惑できるか、勝負しない?」
 ロッティはすっかりトリミングにも、トリップにも飽きていた。
「いいわよ。でもあんたは、無理そうね」
「なんで?」
「ルマーノみたいな男って、イカれた女は嫌がるのよ」
 ロッティはムキになって言った。
「あたしが勝つわ」
  その日からロッティは、ルマーノを毎晩部屋に呼んだ。ロッティとわたしは相部屋だったので、わたしはいつも二人の様子を見ていた。ロッティは編み物をした り、歌を歌ったりしていた。それは今までで最も平穏な時間だった。ルマーノはギターが弾けたので、わたしたちは大喜びで、彼にいろいろ弾かせた。ルマーノ は文句ひとつ言わず、寡黙に音色を奏で続けた。
「わたしたち、三人で興行できるかもね」
 一番歌が下手なロッティが、そう言っていつもわたしたちを笑わせた。しかし、ロッティは本気だったのだ。今までのことを一切忘れ去って、歌をうたって暮らしていくことに、幸福を信じていたようだった。
  いつしかわたしは、ロッティとルマーノが一緒に部屋にいるとき、部屋に入らないようにしていた。二人は幸福そうだった。ロッティが幸せそうに微笑んでいる とき、わたしはなんとも形容しがたい、満ちあふれた気持ちになった。そしてわたしもまた、車にルマーノを乗せて山を降り、都会の駅前でギターと歌で食べて いく夢を見るようになった。
 ある日、わたしは昼間のトリミングの最中、ルマーノをディナーに誘った。ルマーノは、黙って頷いた。
 わたしとロッティは、作業が終わったあと、カスレとシュークルート、ブリオッシュを用意した。ロッティは酒を飲まなかった。マリファナもしなかった。自然な愛の幸福だけで十分に満たされている様子だった。
 午後七時ごろ、ルマーノはヴァージニア煙草を吹かしながらやってきた。
「おいしい?」
「ああ、おいしいよ、ラガッツァ」
 ルマーノは少し照れたように笑った。彼は笑うとえくぼができ、それがとてもかわいらしく思うのだと、ロッティはいつかわたしに打ち明けていた。
 ロッティがなんとなしにテレビを点けた。わたしは直感的にそれをやめさせようとしたが、もう遅かった。テレビにはわたしたちの顔写真が映っていた。指名手配のニュースだった。
 ルマーノが声を上げる前に、ロッティは素早く料理包丁でルマーノの首を刺した。わたしにまで血しぶきがかかった。幸福は包丁の一振りで台無しになってしまった。
「もうやめましょう、こんなこと。ルマーノはいい人だったわ」
 ロッティはうなだれて呟いた。
「そうね」
 わたしたちはルマーノの死体をそのままにして、夜のうちに車に乗ってアテレオ山を降りた。
「どこへ行くの?」
 わたしは運転しているロッティに訊ねた。ロッティはまっすぐ前を見据えて言った。
「カーランドへ」
 まるで最初から決まっていたかのように迷いがなかった。
「戻ったら一巻の終わりよ」
「わかってるでしょ? ヴィクトリア。あたしたちは、最初から終わってるんだって。終わらせるためにこの旅に出たってこと。もうお遊びは終わっちゃったの」
「お遊び? それにしては、つらかったわ」
「そういうものなのよ。あたしたちは贅沢しすぎたわ」
 アテレオ山からカーランドまで、わたしたちはほとんど一睡もしなかった。モーテルにも泊まれなかったし、車道にしばらく停めているだけで警察にしつこく尋問されるのだから。
  一週間、二人で交代して運転した。車道や窓ガラスすべてが汗だくだった。頭上で、白い球体だけが乾ききっていて、わたしたちを完全に解体しようとしてい た。太陽は容赦なくわたしたちを叩きのめした。太陽は今にもわたしたちのすべてを、一切を示すだろう。新聞やテレビより迅速に、仮借なく、一切を。
 カーランドに到着した頃、わたしたちは死体と同じくらい異臭を放っていた。それでも、ロッティは美しいままだった。
 夜だった。ヒステリックなネオンがわたしたちを歓迎していた。
「やっぱりここが一番だわ」
「そんな嘘、つまらないわよ」
 ロッティはわたしの言葉を聞いているのかいないのか、懐かしげにネオンを見上げていた。ロッティにはモーテルより山奥より、ネオンの中が一番似合っていた。ずっと洗っていない服、フケまみれの髪、垢でよごれた肌。それでもやはり、街で一番の美女は、シャルロッテだった。
「ネオンは持っていけないもの」
 彼女は名残惜しそうに電気の光をあおいだ。「あの世には何も持って行けないわ。情愛(タンドレス)だけを抱いていくの」
 猫に似た頬骨の輪郭をネオンライトが縁取った。
 わが美、わが情愛。わたしのシャルロッテ。わたしは彼女の瞳に映りこむわたしを見た。わたしは泣いていた。
 わたしたちはキャバレーに行った。相変わらず客は無人で、アリシアが暇そうにフランス煙草を吸っていた。
 アリシアはわたしたちを見ると何も言わず、きんきんに冷えたヴェルモットを出した。アリシアはわたしたちをじっと見た。そして口べたのくせにこんなことを言いだした。
「あんたたちより美しい女は見たことが無い。これからも見ることは無い。あんなことさえしなけりゃ……いや……何をしても、美しい。本当に」
 彼女はきっとわかっていたのだろう。わたしたちの命がもうすぐ中絶してしまうことを。
 その晩、必要なものを買うとすぐカーランドを出て、ホボロ湖に行った。昔、両親と一緒に湖畔で遊んだ湖畔だ。
 二人で車の排気口にホースをつなぎ、窓から車の中に入れた。
「できるだけ密閉にしなくちゃいけないのよ。ちゃんとやってよ」
 ロッティはなぜか自慢げに言いながら、ガムテープで車窓を塞いでいった。それから彼女はCDを何枚か出して、わたしに訊ねた。
「どれがいい?」
「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」
 シナトラを聴きながら、わたしたちはシートを倒した。右手でロッティの手をつなぎ、左手でモルガンの乳首を弄んだ。ロッティはユーリの思い出も、ルマーノの思い出も、何も持っていないので、哀れに思った。
 窓から暑さが鋭利な刃のようにわたしたちの皮膚に、細胞に喰い込み、少しずつ殺していった。わたしたちは無力の底に沈んでいく。シャネルの香水も、ルブタンのヒールも、紙幣も、硬貨も、わたしたちを死から守ってはくれないのだ。
 息絶えるまで退屈なので、しばらく会話をした。
「どうして、この曲なの?」
「わたしたちは月に行くからよ」
 呼吸が乱れてきて、意識がぼうっとしてきた。「きっと地獄にさえ行けないわ。それにロッティ、あんたはエイリアンみたいだった。初めて会ったとき、こんな風になるなんて思わなかった」
 わたしはロッティの手を強く握りしめた。ロッティは笑ってわたしにキスをした。
「あたしはこうなるって思ってたわ。キャバレーではじめて会った日から」
「わたしでよかったの?」
「あんたがよかったの。あんたが一番あたしを愛してくれた。幸せよ」
 ロッティの胸が激しく上下しているのをわたしは見ていた。
  わたしは彼女を救済できたのだろうか?否、つかの間にすぎなかった。ロッティはわたしと出会ったあの日から、彼女の柔らかな胸は虚無と破壊に押しつぶされ ていた。そしていつの間にかわたしもまた彼女の世界に浸っていた。結局、シャルロッテを愛するとはそういうことなのだ。わたしたちの愛は錯乱し、倒錯しつ づけていたが、まるで夢の中のように心地よかった。
 ロッティは世界すべてに抗っていた。生きることにも抗った。しかし、その生はやはり、湖のさざめきのように美しいだけにすぎなかった。
 こういうわけで、こういうわけで、わたしたちは死んだのだった。もうすぐ夏も終わるだろう。