1112 鬱について

私は鬱病だ。

風邪やリウマチ、ヘルニアなどと違って、鬱病は気軽に人に告白できない風潮のある、それなのに見渡せば多くの人間を悩ます秘められた病だ。

診断を受けたのは高校生のときだったけれど、実際予兆のようなものは小学生のころからあった。今思えばヒポコンドリー性基調(死に対する異常な恐怖心、生への執着)だった。もともと集団生活に向かない協調性皆無だった私は、その不安定な環境のなか、心を「死」というものに集中させ、

結果的に

「死ぬのが怖いから自殺したい(はやく楽になりたい)」

という矛盾した感情に長く取り憑かれていた。死についてあまりに長く考えすぎて、ひどく疲労していた。心の中ではもう何百回も死んだつもりだった。死に結びつくもの=経済的困窮を何より恐れ、無職になることが死ぬことより恐ろしく、それと同時に、死にたいあまり治安の悪い地域に無防備に行ってみたり、知らない人についていくこともしょっちゅうあった。一思いに殺してほしいといつも思っていた。

 

それでも去年一年の間はなんとかマシで、仕事にも毎日通っていたが、今年の初夏あたりから不眠や謎のイライラに悩みはじめて、病院をいくつか回った。近所の心療内科で様々な薬をもらったが、どれも効き目がないように思え、たまに「効いている」と感じても実際はただの躁状態になっただけで、効果が切れればまたダウンしてしまうという悪循環に陥ってしまっていた。

そして7月、合わない仕事のことや個人的な悩みや忙しさでストレスが爆発し、自分の部屋のベランダから飛び降りた。幸い頭を打たず、骨折程度で済んだが、その後も鬱状態は続いた。

 

そんなことがあって今日、産業医から紹介を受けて超面倒くさがりながらも大学病院に出向いて教授に診てもらったが、結果的にいえば無意味だった。診察の結果は「今の主治医に、今まで通りの処方をしてもらい、今まで通り会社(合わない、嫌い、苦手な場所&協調性が必要な場所)に通うことがベスト」という、診察料を取られる意味がまったくわからないものだったのだ。

そしてようやく私は、薬と医者に頼ろうとしている自分に気付いた。

抑鬱状態のとき、一時的に抗うつ剤抗不安剤に頼ることはまったく悪いことではないと思う。

しかし、私は、「飲んだら全部解決」を求めていた。

それに、初対面の医者に私の人生を解決してもらいたがっていた。自分の人生を一番知っているのは自分であるのに。

 

大切なのは、私の捻くれた「どうせ治らない」という諦めや開き直りからいかに脱出するかということだ。

そういうことに気付けただけで今日の診察は真には価値があったのかもしれない。

それに近頃、とある良いことがあって、私の個人的な悩みが解決される希望が少し見えてきた。仕事は失うかもしれないが、合わない仕事よりも大切なのは自分のメンタルだ。もしかしたら、生活が一変するかもしれない。それはまだ今のところ何も言えない。

 

病院から帰ってきて、はぁとふる売国奴さん(@keiichisennsei)の「うつヌケ」という漫画を購入して読んでいたら、大槻ケンヂの回で、大槻ケンヂが「仏教の思想を取り入れた療法で鬱を改善させた」と書いていたので、詰んであった本の山から岩波の「ブッダの真理のことば 感興のことば」を引っ張りだしてきてめくってみた。

鬱状態のとき、私はまったく文章が読めなくなるので、買い込んだ本の山を敬遠していたのだが、これはいわゆる一行名言集なので簡単に読め、しかも何故か涙が出てくる魔法の本だということがわかった。

大槻ケンヂがブッダから教わった「不安は常に人生につきまとうので、今できることだけやればいい」という言葉に、心がかなり軽くなった。